親鸞の「利他」の思想                   

  
  
───『教巻』と『行巻』のめざした「利他」───                        

                                 入井善樹

  Sinran's Thought

  To Benefit Other’s Comes from the First Chapter
“True Teaching” and the Second One “True Practice
in the Kyougyoushinsyo- 

 

 

  乗と親鸞の「利他」の全容 


 
自然破壊、テロ問題による国際的貧富の差の拡大、また難民や極貧層の大量流

出など、仏教はこの国際問題にどう貢献できるのか。


 一方、国際的に大きな影響をもっている、キリスト教には小さき者を救うとい

う、優れた「隣人愛」の教えがあって、国際的貢献をしているように見える。


  すべてのいましめの中で、どれが第一のものですかと、イエスは答えられた。


  「第一のいましめはこれである。『イスラエルよ。聞け。主なるわたしたち

の神はただひとりの主である。』‥‥‥第二はこれである、『自分を愛するよう

にあなたの隣り人を愛せよ。』これより大事ないましめはほかにない。」
1)


  この「隣人愛」こそが、全人類の共感を受けているといえよう。


 
ところが、初期の大乗仏教は「利他行」という人類の理想への実践を訴え、大

きく発展してきた。欲深い民衆をして、いかに利他行させるかが大乗仏教の面目

であった。しかし、中世から近世にかけて階級闘争が起こり、多くの貧困者を生

むにいたり自分が生きることに汲々となり、「利他」の喪失が起こった。そして

、現世の幸せは望めなくなり、死後の幸せを願う教えが隆盛を極めた。近代に入

り、自由主義から自我の主張と現世謳歌の思想が台頭して仏教は民衆の魅力を失

っていったと推察するのである。なかでも、浄土真宗は一向一揆のころには民衆

の苦しみを連帯し、抵抗運動を生んだ。この運動の正否はともかくとして、利他

の精神が存在していたと推察する。ところがその後、「利他行」は死後に追いや

られ衰微の一途をたどって、日常生活と遊離してしまったと考える。


 


 この課題をもって親鸞を読むとき、「利他」という文が多く使われていること

に注目するのだ。ところが、これら「利他」という言葉のすべてといっていいだ

ろう、アミダブツの利他と解釈され、私からの利他とは解釈されていないのだ。

真宗の教えが「他力」ということと、私は悪人という常識があるために、利他な

どできないと解釈され、主語のない「利他」はすべてアミダブツからの利他だと

、アミダブツが私のために尽くしてくれた「他力」だと解釈されてきた。


 つまり、親鸞のいう「利他」とは「他力」の意味だという。それなら「利他」

ではなく「他力」と、使い慣らされた言葉を使ったほうがいいのだ。「利他」と

「他力」とは意味が違う。本を書く者が、違う言葉をわざわざ同じ意味に使って

、読者を混乱させるかという疑問が起こるのだ。


 大乗仏教では成仏したいと願った本人が、「利他行」しなければいけない。と

ころが、伝統真宗の解釈では私に利他行がなく、アミダブツの利他行によって私

が成仏するというのだ。この考えが正しかったかという論点を吟味するとき、日

本語の文法がおかしかったり、一つの文章に主語が二つあって混乱することにな

ったりと、多くの疑問が出てくるのである。私の結論は、他力によって利他行さ

せられていると学ぶのだ。


  親鸞の主著・『教行信証』の著述の経緯は、菩提心に燃えた明恵が法然に対し

て、「念仏者には菩提心がない」と批判してきたことに反論して、親鸞は「信心

が菩提心だ」と答えるために書かれたといわれてきた。「菩提心」とは、上を見

てはブッダになることを目指し、下を見ては自分より先に人を渡す、利他行の心

を持つことである。


 
「信心が菩提心」という親鸞の主張は、『華厳経』を文証として、『信巻』の

なかの「信楽」を説明した引用文に伺える。



 
  『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓

喜して、疑いなきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」と

なり。‥‥‥。


  またのたまはく(華厳経・賢首品・唐訳)、「信はよくかならず如来地に到

る。‥‥‥信はよく永く煩悩の本を滅す。‥‥‥すなはち信心退転せざることを

得。‥‥‥信はよく一切仏を示現せしむ。‥‥‥すなわちよく菩提心を発起す。

もしよく菩提心を発起すれば、すなわちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよ

く仏の功徳を勤修すれば、すなわちよく生れて如来の家にあらん。もし生れ

て如来の家にあることを得れば、すなわち善をして巧方便を修行せん。もし

善をして巧方便を修行すれば、すなわち信楽の心、清浄なることを得。‥‥‥す

なわちよく慈愍して衆生を度せん。‥‥‥すなわち堅固の大悲心を得ん。‥‥‥

すなわちよく一切衆を兼利せん。
2)



 まず、念仏の信者は「如来にひとし」という。次に、信心が如来地に到るとい

うから、信心が浄土往生するのである。心が浄土に生まれるということは、当時

の常識的な発想だった。たとえば、「思い立つ 心や行きて三吉野の 花の梢で

 われを待つらん」と歌われる。思い立ったとき、心が先に吉野の桜の枝に停ま

って、私の肉体を待っているという歌なのだ。当時は、心やタマシイが抜けて飛

び回るということを真剣に信じていた時代であった。だから、信心は生きている

いま、真剣に往生を信じたであろう。これが、親鸞の「即得往生」を信じた信心

であったと考える。
3)



 次に、信心は永く煩悩のもとを消滅し、信心は「不退転」となるという。親鸞

の「不退転」は「正定聚」のことだから、大乗仏教のボサツの最高の位に入るこ

とだ。
4)


 「信はよく一切の仏を示しあらわす」という。親鸞は「この心、仏と作る」と

いうから、信心がブッダになるのだ。そして、ここで「菩提心を発起す」といい、

信心は「菩提心」だという。『華厳経』が教えるのだから、明恵も反論はできな

かっただろう。


 「菩提心」を発起した者は、ブッダと同じ功徳を修行するのだ。すると、如来

の家に生まれるという。そして、「善巧方便を修行する」ということは、「善巧

方便」とは『証巻』の「善巧摂化」と同じ意味であって、「還相」のことであ

る。
5)つまり、これは信心の「還相」が説かれたと考えられよう。すると、

「信楽は清浄な心となる」。親鸞はよく信心を「清浄心」と呼称するが、これ

は還相した信心のことなのだ。信心は民衆を先に渡す、民衆に奉仕する大悲の

心となって、利他行に挺身するという。



 「慈愍して衆生を度す」「一切衆を兼利す」は利他行のことだ。「不退転」を

現生の利益というのだから、当然、信心の還相やこれらの利他の心も現生という

べきであろう。



  親鸞は主著・『教行信証』の「総序」の最後で、「真宗の教・行・証を敬

信して」と、真宗の全容は「信心」の中に収まるという。すると、この『華

厳経』の「信」の説明文は注目すべきであって、教・行・証のすべてが利他

行によって貫かれた教えと学ぶべきであった。そして、私の中に利他行せよ

という信心が生まれるのである。これを「学仏大悲心」といったのであろう。


  もう一つ、伝統的解釈の「利他・他力」の矛盾は、『愚禿鈔』に「深信の

二回向」の文が説明され、「一つには」の文のほうに「自利」と左訓され、

「二つには」の文に「利他他力之回向」という左訓がされている。
6)これは、

「利他」と「他力」が同じ意味ではなく、「利他」は「自利」に対峙させて

いるから、「利他」の主語は私であって、私の深信が人に利他行するという

意味でなければならない。つまり、深信には二つの意味があって、二番目の

ほうは深信に還相の回向があるという意味になる。すると、「私をして利他

行させるのは、他力の回向による」と解釈すべきだった。生きているいま、

「還相の信心」が私を突き破り、苦悩者に向かって利他行させる働きのある

深信が、私の中に構築されたと理解すべきだったのだ。
    


 ここで結論できることは、親鸞の文で主語のない「利他」は、アミダブツ

や本願力によって、「私が利他行させられる」と解釈すべきだった。その利

他の信心に肉体の煩悩が邪魔をするから、「悪人」だという自覚が自然に生

まれてくることになる。


 
‥‥‥この答えなら、明恵も納得しただろうと想像する。


  振り返って考えてみると、大乗仏教の発生意義は、人のために尽くす「利

他行」が実行されることにあった。大乗仏教を完成させた龍樹は、利他行の

ない修行者は「馬とは名前だけで、馬の用をしないボサツである。空を悟っ

たと思いながら、利他行を実行しないボサツは腐りきった敗壊のボサツ」と

厳しく誡めている。人の苦も空なんだと静観して、苦悩者に利他行しないボ

サツは、「ボサツ沈空の難」といい、そこから抜けだすことは地獄から抜け

出るより難しいという。利他行のない仏教者など、認められないのである。

この龍樹が「念必定のボサツ」といって、念仏者はボサツだと厳命してい

る。
7)


 天親の「利他」についても、『天親和讃』に「利他の信心」が歌われる。


  
○尽十方の無碍光仏 一心に帰命することは 


   天親論主のみことには 願作仏心とのべたもう


  ○願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり


   度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり
8)


 「度衆生心」とは利他行する心だから、天親のいう信心は利他の心だと、

親鸞は理解していたことになる。大乗仏教の利他行は常識だから、当然、親

鸞が選ばれた七人の念仏の高僧たちも、その常識に照らして読んでゆかなけ

ればならないのだ。


 このように考えてきて、親鸞の全容は「利他行」する信心が、私の中に構

築される教えだったと推考するのである。ここを明記して、親鸞を読み進ん

で行こう。


 


  
『教巻』の利他について

  親鸞の主著・『教行信証』の最初が『教巻』である。この巻頭の文で「還相」

という利他の教えが説かれる。


   
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには

還相なり
9) 

 
浄土真宗に出会うとは、「往相回向」と「還相回向」の二つに出会うことにな

る。「往相」とは、浄土に往生する様相という意味で、「還相」とは浄土に生ま

れた者はアミダブツと同じ、「証(さと)り」を開いて苦悩者を救うために浄土

から還ってくる様相という意味である。


 
しかも「往相」には、自分が持っている大切なものを、すべての人に与えて共

にアミダブツの国に生まれさせる」という意味があり、還相だけでなく往相にも

「利他」の教えが含まれているのだ。
10)


 
ここの「還相」は、浄土から還ってきてというから、死後の事例とされてきた

。ところが大乗仏教は、「生死一如」の教えだから、生と死があるがまま一つと

教える。すると、往相はすなわち還相だという考えが出てくるのである。


 たとえば、さきの『天親和讃』で「願作仏心はこれ度衆生心」と、一つで見て

いることからも理解できよう。「願作仏心」とは「ブッダになりたいという心」

であり、「度衆生心」はアミダブツと同じことをする心だと、それが一つだとい

っているのである。
11)



 
「願作仏心」とは往相の心であり、「度衆生心」は「還相」の心と考えられる

。すると親鸞は、生きているいま、信心の中に「往・還一如」を見ていたことに

なる。


 
さて、親鸞の考える浄土真宗は、誰を対象にした教えだっただろうか。それを

学ぶのが、親鸞の八十四と八十五才の時に、信者に書き送った『如来二種回向文

』という短文に注目するのだ。
12)


  この文から、「往相・還相」のすべては「苦悩の有情」のためであったと簡単

に理解できる。すると、浄土真宗の全体が苦悩者のためだったことになる。この

文は親鸞の最晩年のものであったから、親鸞はいつまでもみずみずしく純真な大

乗仏教者であって、人生の全体が一貫して苦悩者のために生きていたと、この言

葉から推考できよう。


 
苦悩者を救うことが、本願の一番の相手であったということは、『浄土文類聚

鈔』の巻頭の文からも論証できる。
13)


 ‥‥‥親鸞の『教巻』の「往還二回向」は、苦悩者への救済が最大目的であっ

たと結論していいであろう。しかも、それが『教行信証』全体に貫かれた精神で

もあったのだ。




  『行巻』の利他について


 
すべての人間は、煩悩を持ち自己中心で身勝手で、そのために自分を苦悩の淵

に引きずり込んでいるのだが、そのようなことに気づけない愚かなのが人間であ

る。その苦悩する人間をして、いかに利他行させるかが『行巻』の念仏の命題と

推考する。


 『行巻』の初めに第十七願が引用され、次に『重誓偈』が引用され、次に『如

来会』が引用される。この『如来会』の文は『重誓偈』の第二句文の「貧苦救済

」の意味であるから、念仏のめざす救済の一番が貧苦者なのだ。


 この文から、アミダブツの考える「行」は、貧苦救済に大きくかかり果てる意

味となる。すると、アミダブツが「十方衆生よ」と呼びかけた心は、国際的最貧

者に貢献を呼びかける心であったといえよう。


 親鸞は、『行巻』の後半で、「浄土真宗は一乗中の一乗」と言明された。そし

て、「一乗は大乗なり。」ともいう。大乗仏教の中心課題が「利他行」なら、そ

れに応える真宗像がここに浮かび上がってくるのだ。


 親鸞は「念仏成仏これ真宗」というからは、念仏が利他行だという説明が必要

となる。すると、『行巻』の初めの「大行」の説明で、利他行が説かれていなけ

ればならないだろう。


  大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろ

  もろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳

  宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。
14)


 ここで念仏には、「もろもろの善法を摂し」という「善法」には、一番に利他

行が含まているだろう。そして、「極速円満す」という。これは、「自利利他円

満」の略語と考えられる。その理由は『浄土文類聚鈔』に、このようにいわれる

からだ。


  
行と言うは、すなわち利他円満の大行なり。‥‥‥大行とは、すなわち無碍

  光如来の名を称するなり。
15)  


 ここで、親鸞は「利他円満の大行」が念仏だというから、人のために尽くす「

大いなる行」が念仏だということになる。


 この利他なら、どのような貧苦者であっても念仏を称えればいいのだ。欲深い

人間が、欲を求めて称えても利他行となって、必ず幸せが約束されよう。これが

、「善因楽果」の真理からの約束なのだ。


 
「自利利他円満」とは大乗仏教の常用であり、私も人も両方が「円満」に利益

を受けるという教えである。


 たとえば商売でいえば、お客様も喜び、店も喜び、両方が喜べる商売ができれ

ば大乗的商売というわけだ。ところが、お客様は喜んだが店は損をしたというの

では長続きできない。また逆に、店は喜んだがお客様はなんだか騙されたような

気になれば、これも大乗的商売とはいわないのである。両者が満足してこそ、大

いなる行となるのである。


 『行巻』の「極速円満」とは、聞こえた念仏によって音速の早さで、自利と利

他の両方が「円満」していると解釈できる。


 


 
‥‥‥では、念仏を称えたら、なぜ「利他行」となりえるのか。


 
念仏とは、「南無阿弥陀仏」とアミダブツの名号(名前)を称えると、聞こえ

た人に名号を届けている。この名号には、大きな功徳が備わっていると、「万善

円備」と教えるから、「万善の功徳」を届けた利他行となるだろう。


  アミダブツ自身も成仏したとき、永い間の「自利利他円満の行」を実行してブ

ッダとなったと『大経』に説かれている。そのアミダブツが利他行を抜きにした

「行」を、大乗の「行」と考えるはずがなかろう。だから、私に利他行させると

いう念仏を考えだしたと、そこにアミダブツの智慧が輝いているのだ。


 アミダブツの立てられた四十八願を読むと、十一種類の願いに、聞こえた名号

によっていろいろの利益を受けると誓われている。「真実の教」の「宗は願い」

であり、「体は名号」だと親鸞はいう。つまり本願には、聞こえる念仏、声の念

仏で「利他行」が成立するようにと考えられていたと論及できるのだ。その名号

によって、利他行させられたという「いわれ」を、疑いなく聞くことを信心とい

ったと考えられる。


 『観経』の「下品上生」の文にも、「経の名や、仏名・法名・僧名を聞いた者

は、重罪が消えて浄土往生する」という。
16)また、『アミダ経』にも、「仏

名や経名を聞いたものは、一切のブッダたちから護られ、悟りを開くことができ

る」と説かれている。
17)


 真言宗では「南無大師遍照金剛」と「僧の名」を唱え、天代宗でも籠山行とい

う厳しい修行があり、十二年間、山に籠もって毎日、三千仏の名を唱え続けるの

も「利他行」となろう。日蓮宗で「南無妙法蓮華経」と「お経の名」を唱えてい

るのも、聞こえた者の滅罪となるという「利他行」だと、浄土経典の証明すると

ころなのだ。



 
アミダブツの第十七願には、「諸仏に褒られたい、称えられたい」と願われ

る。そして、アミダブツの説かれたお経に、他宗の諸仏の名や経や僧の名にまで

価値があると教えたなら、諸仏もアミダブツの名号を褒め称えるはずである。


 ここでいう「諸仏」とは、大乗仏教の体現者ばかりであって、利他行を命がけ

で実行してきて、いまも実行している方ばかりなのだ。その諸仏が念仏を褒め、

民衆に念仏を勧めるということは、念仏は利他行以外の「行」ではありえないは

ずだ。


 つまり、念仏の利他行が成立するためには、周りの人に聞こえなければいけな

いから、善導・法然は「声」の念仏に、曇鸞・親鸞は「聞こえる」念仏にこだわ

ったと伺える。


 ‥‥‥この説明なら、中国の摂論家学派が〝念仏にはただ願いだけあって、「

行」がない〟と批判してきた、その批判にも答えられ、明恵も納得したと想像す

る。


 念仏の「利他行」は、私は欲の深い悪人であっても、ブッダの名や経の名に功

徳があるお陰で、「利他行」できたから「他力の行」といわれたと学べばいいの

だ。


 では、ここで親鸞が「自利」を省略して、「利他円満」といったのはなぜかと

いう問題が残ろう。これは、天台宗を開いた最澄が、ボサツの行には「自利」は

なく、「利他」に含まれるといい、自利を略して「利他」のみで使い慣らしたか

らと考えられる。
18)


 しかも、最澄は利他の教えは大乗であって、大乗経典でなければ七難の災難を

消滅できないと最重要な行を利他行だともいっている。
19)親鸞は「山家の伝

教大師は(最澄) 国土人民をあわれみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏

をとなうべし」と歌われますから、念仏は大乗の利他行でなければ理屈が合わな

いことになろう。


 当時の天台宗の影響の強さを考え、「自利」を省略して「利他」を強調し、天

台宗の説に合わせて批判をかわしたと考える。



  ところで伝統真宗の考えでは、この「自利利他円満」の念仏を、「利他」はア

ミダブツからの利他だと説明してきた。〝念仏は、私がしなければいけない行を

、アミダブツが代わりにしてくださった、「行」をいただいた証拠が念仏だ〟と

いう、「他力の行」だという。


  この説明だと、親が子供の代わりに勉強して、子供が大学に入ったという説明

と同じになって論理的におかしい。これは、他因自果という外道の考えに落ちて

、「自業自得」の教えに反しているだろう。天台宗を学び抜いて天台宗を捨てた

親鸞が、このような答えをだすとは思えないのである。


 もう一つ、伝統的解釈は語彙の常識をも曲げていると考える。「自利」と「利

他」の主語はだれかという問題である。常識的には「自利」は私が利益を受ける

、「利他」は私が人に利益を与えるという意味で、どちらも主語は同じ私でなけ

ればいけない。


 ところが伝統真宗の言いかたになると、「自利」の主語は私であり、「利他」

の主語はアミダブツだというのだ。「利他」はアミダブツが私に利益を与えてく

ださったというのだ。つまり、前文と後文の主語が違うのである。このよう文章

は、読者を混乱させ理解できなくするだろう。この説明を、明恵が聞いて納得す

るかという疑問がでよう。


  ‥‥‥かくて、念仏は名号のお手柄によって、つまり名号に備わった功徳宝に

よって、私をして「利他行」をさせていると結論づけられる。


  念仏は、悪人だろうが善人だろうが、若かろうが老いておろうが、男だろうが

女だろうが、称えた側の心に関係なく、「利他行」となり果てるのである。人を

呪い殺そうと念仏しても、聞こえた念仏は利他行して功徳と幸せを運んでいるの

である。称える側の心に関係なく、念仏は浄土と同じ清浄な利他行となり果てる

から、「浄土真実の行」と言明されたと推察する。そして、利他行の念仏によっ

て、「一切の無明を破し、一切の志願を満てたもう」といい、苦悩の元(無明)

を解決しすべての悲願を満足させると、当然、往生成仏に必要な「行」のすべて

も揃ったというのである。ここを信じたら、「念仏往生の願」という、第十八願

の信心を獲得したことになる。


 かくて、親鸞の『教巻』からも『行巻』からも、私をして利他行させようとい

う働きを熟読しなければいけなかったのである。



注、(本派。大派)の聖典で、本派『聖典』は本願寺派発行の注釈版、大派『聖典』は大谷派発行の『真宗聖典』のこと。

1)聖書。マルコ、一二の二九~三一。

2)『華厳経』文。(『信巻』の「信楽釈」文。本派『聖典』238頁。大派『聖典』230頁。)

3)論文集『東方』第6号、中村 元著・「極楽浄土にいつうまれるか?」‥‥‥『岩波仏教辞典』に対す る西本願寺派からの訂正申し込みをめぐっての論争、211頁。引用の拙稿参照。東方学院、1990年 発行。

4)みな大乗正定の聚に入りて、畢してまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と 名づくることを得るなりと。(『証巻』。本派『聖典』325頁。大派『聖典』292頁。)

5)善巧摂化とは、〈かくのごときの菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して柔軟心なり〉(浄土
 論)とのたまへり。(『証巻』。本派『聖典』325頁。大派『聖典』292頁。)

 ○釈迦・弥陀は慈悲の父母

   種々に善巧方便し

   われらが無上の信心を

   発起せしめたまひけり (『善導和讃』。本派『聖典』591頁。大派『聖典』496頁。)

 ○ 釈迦・諸仏、これ真実慈悲の父母なり。種々の善巧方便をもつて、われらが無上の真実信を発起せし めたまふ。(『入出二門偈』、本派『聖典』551頁。大派『聖典』466頁。)

 ○その身を後にして身を先にするをもつてのゆゑに、巧方便と名づく。このなかに〈方便〉といふは、い はく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟 成仏の道路、無上の方便なり。(『証巻』。本派『聖典』327頁。大派『聖典』293頁。)

6)この深信のなかについて、二回向といふは、

    一つには、「つねにこの想をなせ。つねにこの解をなす。ゆゑに回向発願心と名づく」と、

    二つには、「また回向といふは、かの国に生れをはりて、還つて大悲を起して生死に回入 して衆     生を教化するを、また回向と名づくるなり」(散善義)となり。(『愚禿鈔』。本派『聖典』5     35頁。大派『聖典』452頁。)

  ここで、深信の中に回向する心が二種あって、二番目は還相の回向の意味から、深信の中には「信心の   還相」が含まれることになる。       

7)本派『聖典』149頁。大派『聖典』163頁。

8)本派『聖典』581頁。大派『聖典』491頁。

9)本派『聖典』135頁。大派『聖典』152頁。

10)「回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのが功徳をもつて一切衆生 に回施して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と。(『行巻』。『信
 巻』。)

  この文は、伝統的には「たまへり」と敬語が使われているので、アミダブツが主語だといわれてきた。  ところが、親鸞はお経の初めに「われかくのごとく聞きたまえり」と、自分がしたことを聞かせていただ いたと「敬語」の表現をされる。ここにも、「往生せしめたまえるなり」と自分が往生することを敬語で 表現している。これを考慮して、「おのが功徳」はアミダブツがご自分の功徳を利他行するのではなく、 アミダブツから私に与えられた功徳を私をして人に与えさせられるという、私が利他行を他力によってさ せられていると、解釈すべきというのが私の主張である。

11)○「願作仏心はすなわちこれ度衆生心なり、度衆生心はすなわちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜ しむる心なり。」(『浄土文類聚鈔』。本派『聖典』494頁。大派『聖典』419頁。) 

 ○「この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと 申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして  生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなは  ち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。」(『唯信鈔文
 意』。本派『聖典』712頁。大派『聖典』555頁。)

  この二つの文を整合して、願作仏心は往相、度衆生心は還相と理解できる。

12)『無量寿経優婆提舎願生偈』にいはく、「云何回向(いかんが回向する)、不捨一切苦悩衆生(いっ さい苦悩の衆生をすてず)、心常作願(心に常にさがんして)、回向為首得成就大悲心故(回向を首とし て大悲心を成就することをえたまえるがゆえにと)」この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あ
 り。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。(『如来二種回向文』。本派『聖典』721頁。大 派『聖典』476頁。)

13)「それ無碍難思の光耀は、苦を滅し楽を証す。万行円備の嘉号は、障を消し疑を除く。」(『浄土文 類聚鈔』。本派『聖典』477頁。大派『聖典』476頁。)

 この文から、親鸞の最初のボタンは、「苦を滅し」の苦悩者の苦を消滅することにあったのである。この 文と『教行信証』の総序の巻頭文も一致して、「苦海を渡してくれる大きな船」ということになる。

14)『行巻』。本派『聖典』141頁。大派『聖典』157頁。)

15)『浄土文類聚鈔』。本派『聖典』478頁。大派『聖典』403頁。

16)「命終らんとするとき、善知識、ために大乗十二部経の首題名字を讃ずるに遇はん。かくのごときの 諸経の名を聞くをもつてのゆゑに、千劫の極重の悪業を除却す。‥‥‥仏名・法名を聞き、および僧名を 聞くことを得。三宝の名を聞きて、すなはち往生を得」と。

17)舎利弗、もし善男子・善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろ の善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざるこ とを得ん。

18)「それ、菩薩の律儀には都て自利なし。利他をもって即ち自利となすが故なり。」(天台大師・最澄 著・『顕戒論』)

 天台宗では、自利は略することが常識だった。

19)「大乗の利他は摩訶衍の説なり。瀰天の七難は、大乗経にあらずんば、何をもってか除くことをなさ ん。未然の大災は、菩薩僧にあらずんば、豈、冥滅することを得んや。利他の徳、大悲の力は、諸仏の称 するところにて、人、天歓喜す。」(最澄著・『四?式』)

 大乗仏教(摩訶衍)は「利他行」そのものという。七難の解決はこの利他行によるほかはないという。利 他は諸仏の説くところだともいう。                           以 上

                                      (いりい・ぜんじゅ 普通会員 光教寺住職)

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