2005年3月31日、『東方』第21号、東方学院発行。


 続 親鸞の「利他」の精神


‥‥‥『信巻』と『証巻』の利他について‥‥‥
                     

Sinran's Thought partⅡ
―To Benefit Other’s Comes from the Third Chapter “
   True Shinjin”and the Fouth One “True Enlightenment”
  in the Kyougyoushinsyo―            IRII Zenju


  要旨

浄土真宗を己証とした親鸞は、「大乗中の大乗」と明言している。それに呼応してか、親

鸞の著述には「利他」と形容する文章が多く存在する。これらの文を大乗の常識に照ら

して読むと、「他力」を標榜する真宗の「行信」は、私をして利他行させる「如来の本願力

」と理解すべきだった。

 ところが、親鸞の「利他」の文に主語がないために、伝統宗学ではアミダブツからの利

他と解釈し、私をして「利他行させる」とは説明しなかった。

 この命題をもって親鸞を読み進むとき、伝統宗学の理解には間違いが多々あり、日

本語の常識では理解できないことに気づいたのだ。そして、国際的にも、民衆に対して

も、まったく魅力を欠いた宗教になってしまったと結論できる。その伝統宗学の最大の

犠牲が貧窮の苦悩者であったと、『教行信証』を中心に学んできた。


 
 『信巻』の「利他」について

 大乗仏教のめざした人間形成(ボサツ)は,人のために尽くす「利他行」を実行する人

間を育てることにあっただろう。この精神を「菩提心」と呼び,仏教者に喚起してきた。

 親鸞はこれに呼応して「念仏者においては,信心が菩提心である」と主張した。そして

,この信心を獲得した者は「大乗の正定聚」だと,最高位のボサツだと教えた。すると,

親鸞のいう信心は利他行に挺身する心と学ばなければいけなかったはずである。

 前号で学んできたことは,親鸞の「信心」は『華厳経』からの学びであった。「信心」が

いま浄土往生し,信心がブッダと同じ心となり,信心が還相して苦悩者のために利他行

するとき,信心は「清浄心」と呼称されるのだ。(1)サンスクリットで「信心」の語源を「チ

ッタプラサーダ」(澄浄心)といい,水が澄みきったような心という。つまり,親鸞にとって

の「チッタプラサーダ」とは,苦悩者を一番に救う「利他」の心を指していたことになろう。

1)論文集『東方』第20号,拙稿100頁。(財団法人東方学院・2004年発行)
○(華厳経・賢首品・唐訳),「信はよくかならず如来地に到る。‥‥‥すなわちよく菩提 
 心を発起す。‥‥‥もし生れて如来の家にあることを得れば,すなわち善をして巧方 
 便を修行せん。もし善をして巧方便を修行すれば,すなわち信楽の心,清浄なること 
 を得。」(『信巻』の「信楽釈」文。本派238頁,大派230頁。)

世界の宗教に照らして,深い信者になるとするなら,その宗教の最高の方や教祖に似

てくるものである。たとえば,オウム真理教(いまはアーレフ)を深く信じると,教祖の麻

原証晃に似てくるのだ。似てこなければ,それは信心がないか,または歪められた教え

を聞かされたかのどちらかだと考えればいい。


 親鸞は「信心喜ぶその人を/如来とひとしとときたもう」(『浄土和讃』。本派573頁,

大派487頁。)とか「信心をえたひとは諸仏にひとしい」(『お手紙』。本派758・759・7

60・765・778・794・802頁,大派580・583・586・588・591・592・608頁)と,

ブッダに似てくると言明されている。ブッダとは大乗仏教の体現者である。そのブッダに

似てくるということは,念仏者も利他行に挺身する行者でなければならないのだ。『信巻

』や『愚禿鈔』にも「深信者とは,ブッダと同じことを身命に変えて実行する,これを真の

仏弟子と呼ぶ」と,善導の教えに学んでいる。(2)しかも,『聖書』にも似た学びがあるこ

とを明記しておこう。(3東西を代表する宗教が,深い信者になればその宗教の最高の

方に似て,利他行(隣人愛)を実行するようになると教えているのだ。

ところが,いまの真宗人はアミダブツや親鸞に似ていないから,オウムを笑えないのだ

。これは,教えどおりに解釈されておらず,そのために信心までがおかしくなっていると

いうことがこの論文の命題とするところである。

2)深信するもの,仰ぎ願わくば一切の行者等,一心にただ仏語を信じて身命を顧みず,決
定して行によりて,仏の捨てしめたもうをばすなわち捨て,仏の行ぜしめたもうをばすな 
わち行ず。仏の去らしめたもうところをばすなわち去(す)つ。これを仏教に随順し,仏意
 に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。(『信巻』 
上と『愚禿鈔』下。本派218頁と523頁,大派216頁と441頁。)
3)○もし,人が信心深い者だと自任しながら,舌を制することをせず,自分の心を欺いてい
  るならば,その人の信心はむなしいのである。父なる神のみまえに清く汚れのない信
  心とは,困っている孤児や,やもめを見舞い,自らは世の汚れに染まずに,身を清く保
  つことにほかならない。〈ヤコブ,2の26~27。〉
 ○あなたがたは敵を愛し人によくしてやり,また何も当てにしないで貸してやれ。そうす
  れば,受ける報いは大きくあなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は,
  恩を知らぬ者にも悪人にも,なさけ深いからである。あなたの父なる神が慈悲深いよう
  に,あなたがたも慈悲深い者となれ。〈ルカ,6の35~36。〉


さて,まず親鸞のいう「真実信心」から探ってみよう。「真実信心」とは,『大経』に説かれ

たアミダブツの第18願の「本願の三信」のことで,「至心・信楽・欲生」のことである。『信

巻』には,この三信のすべてに「利他」と形容していることに注目したい。

 「至心」を,「利他の真心」「回向利益他の真実心」(「至心釈」)という。

 「信楽」を,「利他真実の信心」(「信楽釈」)という。

 「欲生」を,「利他真実の欲生心」(「欲生釈」)といっている。

 この当面の意味からは,私が信心を獲得すれば,信心が私をして利他行に突き動か

す心と理解できよう。この説明なら,念仏者に菩提心がないと批判してきた明恵に対し,

見事に答えたことになる。

 信心を「利他」と形容した箇所はほかにもあり,『信巻』の最初に「大信心」の説明で「

利他深広の信楽」といい,『浄土文類聚鈔』にも「浄信というは,すなはち利他深広の信

心なり。」という。

 すでに前号で学んだように,親鸞には信心が浄土往生したという文が多くあるので,

信心がいま浄土往生し,苦悩者を救うために浄土から帰ってきた還相までを「浄土の菩

提心」に含み,それが第18願の信心だったと私は主張してきた。(4)親鸞には還相の

信心が説かれており,『信巻』の「華厳経」文と『愚禿鈔』の「深信の二回向」の文証です

でに学んできた。信心は「菩提心」であり,「還相の心」であり,「大悲心」であり,民衆に

貢献する「利他の心」と学ぶべきであったのだ。

4)○慶ばしいかな,心を弘誓の仏地に樹て,念を難思の法海に流す。(『化巻』。本派474
  頁,大派400頁。)
 ○光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には,「信心のひとは,その心すでにつねに浄土に
  居す」と釈したまえり。「居す」というは,浄土に,信心のひとのこころつねにいたり,とい
  うこころなり。」(『ご消息集』。本派759頁,大派591頁。)
 ○この無上菩提心はすなわちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなわちこれ度衆生心な
  り。度衆生心は,すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。この
  ゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は,要ず無上涅槃を発するなり。(『信巻』
  ・『証巻』。本派247・326頁,大派237・292頁。)
○浄土の大菩提心は/願作仏心をすすめしむ/すなわち願作仏心を/度衆生心とな
  づけたり(『正像末和讃』。本派603頁,大派502頁。)
 ○往相回向の大慈より/還相回向の大悲をう/如来の回向なかりせば/浄土の菩提は
  いかがせん(『正像末和讃』。本派609頁,大派504頁。)

 
信心の還相については,詳しくは『東方』20号。(2004年発行)101頁を参照。

‥‥‥ところが,いままでの伝統教学では,この「利他の信心」のすべてを,アミダブツ

から私への「利他」だと解釈して,「他力」の意味だと学ばせてきた。

 親鸞が「たまわった信心」というから伝統的解釈にも一理はあるが,この考えでは大乗

仏教の利他の説明ができず,しかも語学的に不備な文が「一心(信心)」の説明にある

のだ。

  一心について,深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり。浅とは定
  散自利の心これなり。(『化巻』。本派39 3頁,大派340頁。)


「一心」とは,信心のことである。信心には「深信」と「浅信」の二つがあり,「深信」とは人

のために尽くす利他の真実の心という。

 「浅信」とは,『観経』の「定善・散善」の信心のことで,少しでも善を積めばそれを鼻に

かけて,見返りに利益を求める自利の心である。すると,ここで「たまわった信心」に浅・

深があるとはおかしいという疑問が起ころう。

 この文には主語がないために,だれの「信心」なのかが不明瞭なのだ。伝統的には,「

利他」はアミダブツが私に利他行してきた「他力」の信心であり,「自利」は私の煩悩が

求める利益追求の「自力」の信心だと学ばせた。この学びでは,一つの文章に主語が

二つあって,前文はアミダブツの利他の心,後文は私の自利の心となって,これは国語

がおかしいのだ。

 たとえば,朝,お母さんが〝チャンとご飯を食べて,学校に行きなさいよ〟といったと

する。これは誰にいったのかといえば,子供にいったであろうと想像するだろう。ところ

が違うのだと,〝ご飯を食べて〟はお父さんに,〝学校に行きなさい〟は子供にいった

といえばどうか。主語が二つあれば,聞いたものが混乱して理解できないから,本を書く

者がこのような表現は絶対にしないのである。

 一つの文章では,前・後の文の主語は同じでなければいけない。前文の主語がアミダ

ブツなら,後文もアミダブツでなければいけない。すると,アミダブツに「浅信(定散自利

の心)」があり,自利追求の煩悩があることになっておかしいのだ。だから,「利他」も「自

利」も主語は「私の信心」と考えるべきで,私の信心が浅いと自利ばかりを求め,私の信

心が深くなると利他行にかかり果てると解釈すべきだ。すると,伝統教学の「利他」とい

う,すべての文が怪しくなるのである。

 親鸞が考えておられたことは,自利心が利他心へと「ふかまる」ということだ。それは『

唯信鈔文意』や『愚禿鈔』に学べ,(5)これらの文を整合すると,「自利の心」とは『観経

』の三心(至誠心・深心・回向発願心)のことで,これを浅信という。「利他の心」とは,『

大経』の「三信心」のことで「深信」の意味となる。つまり,第18願の「本願の三信心」は「

深信」であって,間違いなく人のために尽くす「利他」の心でなければいけないのだ。

5)○ 『観経』の三心をえてのちに,『大経』の三信心をうるを一心をうるとはもうすなり。
   (『唯信鈔文意』,本派714頁,大派557頁。)
○おおよそ心について二種の三心あり。 一には自利の三心,二には利他の三信なり。
  また二種の往生あり。 一には即往生,二には便往生なり。
   ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば,これすなわち諸機自力各別の三心なり。
  『大経』の三信に帰せしめんがためなり,諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲うな
  り。三信とは,これすなわち金剛の真心,不可思議の信心海なり。また「即往生」とは,
  これすなわち難思議往生・真の報土なり。(『愚禿鈔』最後の文。本派541頁,大派45
  8頁。)


 そして『唯信鈔文意』では,自利の信を「えてのち」に利他の信を得るというから,自利

が利他へと変わると理解すべきなのだ。すると,真宗の入門には「自利の心」がなけれ

ば「利他の心」に入れないということであって,「自利の信」も大切な心となる。つまり,利

益追求の煩悩の心がアミダブツに出会って,人のために尽くす心へと変容するから本

願不思議というのだ。

 ‥‥‥では,煩悩の心をどうやって利他の心に,「帰せしめ」「通入せしめ」るというの

だろうか。

凡夫がブッダになるには,浄土に往生しなければいけない教えが,わが真宗の教えで

ある。そこで,『愚禿鈔』の文では,「自利・利他」と「即往生・便往生」とを対峙させたこと

に注目するのだ。つまり,「便往生」の「諸機自力各別の三心」の人を勧誘して,「即往

生」を信じる三信に「帰せしめ」,「通入させるため」といっていることに注目するのだ。

 「便往生」とは,往生するぞという「たより」を受けて,「即往生」を信じない人のことで,

死後の往生を願う人のことなのだ。つまり,死ぬまで自分の利益追求で終わるから,信

心が還相の利他にまで到らないので,
「諸機の三心は各別にして,利他の一心にあら

ず」(『化巻』。本派381頁,大派331頁)
と嫌われたと理解すればいいのである。


 「即往生」は,前号で学んできた「即得往生」を信じるということで,すでに浄土に生れ

終わったと信じた第18願の人のことである。往生したら次に必ず,還相の利他行が起

こると教えられるのが第22願の「還相の願」である。「浄土に生まれた者は,ブッダにな

るまえのピンチヒッターの役目として,一生補処のボサツとなって利他に挺身する」とい

う。これを,インドの天親以来,苦悩者のために「利他」の働きをすると理解されてきた。

つまり,私の信心は苦悩者のために尽くす「大悲心」となるのである。この心を持った者

が,「一生補処のボサツ」
(6)であり「正定聚」なのだ。これは,第18願の信心とは往相

・還相のすべてを信じた心,と教えることに合致しよう。
(7)

6)○安楽無量の大菩薩/一生補処にいたるなり/普賢の徳に帰してこそ/穢国にかなら
  ず化するなれ(『浄土和讃』。本派559頁,大派480頁。)
 ○真実信心うるゆゑに/すなわち定聚にいりぬれば/補処の弥勒におなじくて/無上
  覚をさとるなり(『聖徳太子讃』。本派605頁,大派507頁。)
7)弥陀の回向成就して/往相・還相ふたつなり/これらの回向によりてこそ/心行ともに
 えしむなれ(『浄土和讃』。本派584頁,大派492頁。)


 また,「三願(往生)転入」や「ひるがえし」という文の存在からも,浅信(自利)が深信(

利他)へと変容すると結論できる。(8)「転入」といえば,「氷がとけて水になる」ように,

氷がなければ水も生まれない。自利の浅信がなければ,利他の深信が生まれないので

ある。

8)○ここをもつて愚禿釈の鸞,論主の解義を仰ぎ,宗師の勧化によりて,久しく万行諸善
  の仮門を出でて,永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して,ひとえに
  難思往生の心を発しき。しかるに,いまことに方便の真門を出でて,選択の願海に転
  入せり。すみやかに難思往生の心を離れて,難思議往生を遂げんと欲う。(『化巻』。
  本派413頁,大派356頁。)
○定散諸機各別の/自力の三心ひるがえし/如来利他の信心に/通入せんとねがう
  べし(『浄土和讃』。本派571頁,大派486頁。)


 この「深信」が,わが身を利他行に駆り立て,わが身を導き救う心となるのだ。つまり,

第18願の「利他の信心」は,わが身にとっては「往相の信心」ということになる。この整

理ができなければ,信心の事例までを「わが身」の中で考え,利他のない自力の信に落

ち込むことになる。

 親鸞には,いまブッダになったという文が多くあり,『正信偈』には「煩悩を断ぜずして,

涅槃を得る」「惑染の凡夫,信心を発すれば,生死すなわち涅槃なりと証知せしむ」とい

う。煩悩を断ち切らずというから「いま」であり,いま涅槃を得ているのだ。これは,信心

が涅槃の心となりブッダとなったが,肉体(わが身)が往生したのではないから,煩悩の

あるままだと考えればいいだろう。

ところで,「利他行」する心は,わが身の肉体の煩悩にとっては都合の悪い心だから,煩

悩が「深信」の邪魔をし抵抗する。そのとき初めて,わが身は罪業深重の悪人だったと

いう自覚が自然に生まれる。この説明が,『正信偈』の「すでに無明の闇を破ったとはい

いながら,貪・愛・瞋・憎の雲霧が,真実信心天の邪魔をする」という。また二河白道の

譬えも同じ意味で,「白道」の願生心(信心)に,煩悩の「火の河・水の河」が邪魔をする

という説明だ。

 凡夫は初めから,自分が悪人だなんて気づくことはできない。凡夫が悪人と自覚する

のは,「深信」に入って起こるから,「機の深信」と呼び慣らしてきた。ところが,伝統的に

は悪人の自覚を入門時に強要しているのだ。そのために,悪人がいまブッダになったと

は考えられず,利他の説明までを見えなくしたと考えられる。

 元来,親鸞は一度も,「法・機の深信」とは呼称されておらず,アミダブツの救いを深く

信じる「法の深信」のことを「利他の深信」,私は悪人でしたと深く信じる「機の深信」を「

自利の深信」と呼んでいたのだ。(9)この呼び名なら,自利・利他のけじめが鮮明だっ

たが,伝統的には利他を見落とした学びが先行したために,この直参教学は理解でき

なかったと考えられよう。

9)七深信とは,
  第一の深信は,「決定して自身を深信する」(散善義・意)と,すなはちこれ自利の信心
  なり。
  第二の深信は,「決定してかの願力に乗じて深信する」(同・意)と,すなはちこれ利他
  の信海なり。(『愚禿鈔』の「7深信」。本派522頁,大派440頁。)


 『教行信証』で親鸞が自らを悪人と述懐するのは,『信巻』の最後の部分で「悲しきか

な,愚禿鸞」という箇所である。これは,「定聚の数に入ることを喜ばず」というから,「深

信」に入っての自覚だ。そして,悪人がいかに救われるかを論及したのが,『信巻』の最

終部分であるから深まった自覚といえる。

「信心がブッダになった」という学びは,「横超」の意味から『唯信鈔文意』や『尊号真像

銘文』でも論証できる。(10)これらの「横超」の説明から,四箇条が学べよう。

10)①この一心は横超の信心なり。横は,よこさまという。超は,こえてという。よろずの法に
 すぐれて,すみやかに,とく生死海をこえて,仏果にいたるがゆえに,超と申すなり。これ
 すなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は,摂取のゆえに金剛心となれり。これは
 『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を,世親菩薩(天親)は,「願作仏心」とのた
 まえり。この信楽は,仏にならんとねがうと申すこころなり。この願作仏心は,すなわち度
 衆生心なり。この度衆生心と申すは,すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころな
 り。この信楽は,衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心な
 り。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなはち如来なり。(『唯信鈔文意』。
 本派711頁,大派555頁。)
  この文から,「生死海をこえ」「仏果にいたる」は往相,「度衆生心」は還相の意味と考
 えられる。
 ②「即横超」は「即」はすなわちという,信をうる人は,ときをへず,日をへだてずして正定
 聚の位に定まるを即というなり,「横」はよこさまという,如来の願力なり,他力を申すなり,
 「超」はこえてという,生死の大海をやすくよこさまに超えて,無上涅槃のさとりをひらくな
 り。信心を浄土宗の正意としるべきなり。(『尊号真像銘文』。本派673頁,大派532頁。)
▽詳しくは,拙著・『ふかまる横超』,8頁。(国書刊行会。平成7年5月30日発行。)と拙
 著・『反差別の教学』,85頁。(永田文昌堂。1996年5月1日発行。)を参照。

 1,横超とは,信心の事例であって,肉体の事例ではない。(11)

2,横超とは,信心が往生から還相までを実体験することで,正定聚は還相のボサツの

ことだと学ぶべきだった。

3,
「横超」とは,信心の「即」に起こり,正定聚と往生に重要な関係があ   る。(12)

11)先の10)の①の文で「この一心は横超の信心なり」といい,次の文からも横超は信心の
 みの事例と論及できる。
 a,横超とは,これすなわち願力回向の信楽,これ願作仏心という。願作仏心すなわちこ
 れ横の菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。(『信巻』。本派246頁,大派23
 7頁。)
 b,念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆえに,臨終一念の夕べ,大般涅槃を超証
 す。‥‥‥これすなわち往相回向の真心徹到するがゆえに,不思議の本誓によるがゆ
 えなり。(『信巻』末。本派264頁,大派250頁。)
12)10)の②の文で「即横超は即はすなわちという,信をうる人は,ときをへず,日をへだて
 ずして正定聚の位に定まるを即というなり,」といい,「生死海をこえ」というから,「即」は
 浄土往生・成仏のことだ。とくに,「横超」は浄土往生のことだと,『一念多念文意』や『愚
 禿鈔』にも説かれている。
 a,横はよこさまにといふなり,超はこえてといふなり。これは仏の大願業力の船に乗じぬ
 れば,生死の大海をよこさまにこえて真実報土の岸につくなり。(『一念多念文意』。本派
 680頁,大派536頁。)
b,二には横超, 選択本願・真実報土・即得往生なり。(『愚禿鈔』。本派502頁,大派
 424頁。)


   つまり,「生死海を超え」というから,この世の側の信心が浄土に往生を完了したの

だ。そして,天親の「願作仏心」は往相,「度衆生心」は  還相の意味となる。

 4,「横超」とは,信心が「仏果・無上涅槃にいたる」から,自利の心がブッダと同じ利他

の心に変容したという意味になる。(13)

13)10)の①で,「仏果にいたるがゆえに,超と申すなり。」といい,②では「無上涅槃のさと
 りをひらくなり。」というから,信心がブッダとなり涅槃となったのだ。しかも,①から信心は
 「大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。」というから,信心は
 利他の心となりブッダになってしまったと理解すべきである。


 つまり,「たまわった信心」が初めから与えられていたのではなく,私の信心が往生し

てブッダへと変容して,まったく私の心とは違った利他心となって還ってきたから,「たま

わった信心」といわれたと理解すればいいのだ。

「横超の信心」は真宗の大切な学びであって,「浄土宗の正意としるべきなり」とか「他力

真宗の本意なり」(『尊号真像銘文』)ともいうから,横超が抜けては真宗ではなくなるの

だ。つまり,利他行の実働のない信者は真宗人ではないということになる。

ここで,キリスト教の『聖書』にも,「横超」に酷似した教えがあるので対比しておこう。

 ▽さて信仰とは,望んでいることがらを確認し,まだ見ていない事実を確  認すること

である。‥‥‥まだ約束のものは受けていなかったが,はる  かにそれを望み見て喜

び,そして,地上では旅人であり寄留者である  ことを,自ら言いあらわした。(『ヘブル

人への手紙』,11の1~13)


 ▽なんでも祈りもとめることは,すでにかなえられたと信じなさい。(マルコ,11の23

信仰はまだ手に入っていないことが,すでに手に入ったと確認することだという。祈った

ことも,すべて受けてしまったということだという。そして,天国の私が本当の私であって

,地上のいまの私は旅人のようなものだという。かくて,天国では神の僕となるように,

地上でも神の僕となって隣人愛に働く。この学びが,シュヴァイツァーやマザーテレサを

生み,いまもアフリカなどの難民救済の運動を生み起こしていると想像するのだ。


善導も「浄土を願えば,つねに浄土に居る」といっている。(14)親鸞がいう「深信」は,

信心とは,得生の想をなす。この心深信すること由し金剛のごとし」(『愚禿鈔』。本派53

2頁,大派449頁)
というから、金剛心が深信なのだ。「金剛というは,すなわちこれ無

漏の体なり」(『信巻』。本派245頁,大派235頁)ともいうから,「金剛心(信心)はブッ

ダ」であり,「この心,仏と作る」という文にも一致する。

14)凡夫生死,貪して厭わざるべからず。弥陀の浄土,軽ろしめて欣わざるべからず。厭え
 ばすなわち娑婆永く隔つ。欣えばすなわち浄土に常に居せり。(『信巻』。本派256頁,
 大派244頁。)


 また,『聖書』にはパウロが「もはや,私が生きるのではない,神がわたしのなかで生

きる。」(ガラテヤ,2の20)
といったことが,親鸞の「たまわった信心」に似ている。しか

し,パウロのいい方は,神が私の中で生きるというから,私ではないと逃げられるが,親

鸞のいい方は私の信心がブッダになったというから逃げようがない。ところが,真宗では

「どうせ私は凡夫ですから」と逃げてばかりで,この差は何だといいたい。いまの真宗の学

びはキリスト教に比較して,信心の強豪さに欠けており,それは入門時の自利の心が

なければ,利他の心に勧誘し通入できないという親鸞の学びが抜けたために,宗教パ

ワーを失ったと考えるのだ。

 親鸞の文には,肉体である「わが身」と「信心」とを対峙させた文が多くある。たとえば

,「わが身」は「小慈小悲もなき身」(『悲嘆述懐和讃』)といい,信心は「大慈大悲心なり」

(『信巻』,『唯信鈔文意』)という。また,「浄土真宗に帰すれども/真実の心はありがた

し/虚仮不実のわが身にて/清浄の心もさらになし」(『愚禿悲歎述懐和讃』)という。浄

土真宗に帰したのは信心である。浄土に帰したのだから真実(利他)の心と生まれ変わ

ったはずだが,「わが身」には真実の心はまったくなく「虚仮不実」だと悲嘆されたのだ。

 ここでは,心・身を二つに分けて考えると理解しやすくなろう。心・身の分離は時代考

証から考えて,親鸞の時代は常識的であった。

 1871年,イギリスの人類学者のエドワード・タイラーが,『原始文化』という二冊本に

おいて,はじめて「アニミズム」という言葉を発表された。「アニミズム」は,ラテン語の「ア

ニマ」からとった言葉で,霊魂,生命,呼吸という意味だ。

 タイラーは冒険家たちと一緒に世界を巡り,世界中の人があらゆるものにタマシイが

あり,それが抜けて飛び回るという同じことを信じていたと発表した。それを「アニミズム

」と名付け,宗教はここから進歩発展してきたといった。古歌に「恋わびて 夜な夜なま

どお わが魂(たま)は なかなか身にも 還らざりけり」と,タマシイが抜けて飛び回ると確

かに歌われている。

親鸞は『行巻』に善導の『礼賛』を引いて,「識あがり,神飛ぶ」(本派164頁,大派173

頁)といっている。そして,「識」の左側に小さく「タマシイ」と左訓した。法然の『選択本願

念仏集』にも同じ文があり,「神」のほうに「タマシイ」と書かれ,親鸞が編集したといわれ

る『西方指南抄』にも,「神」に「タマシイ」と書かれているから,タマシイが抜けて飛び回

ると考えておられたのだ。

 「識」について,同じ『行巻』に「信心の業識にあらずば光明土に到ることなし。」(本派

187頁,大派190頁)というから,信心の業ダマシイが浄土に往生したと真剣に考えた

と想像できる。しかも,善導も法然も,同じことを考えていたことを念頭に入れて,読み

進んでほしい。

 この私の信心の理解を,心理状態だと批判されたことがあった。その反論として,『入

出二門偈』には信心を人格で説明した箇所がある。(15)親鸞の信心の体験は心理状

態ではなく,人格(タマシイ)の体験と理解すべきだった。つまり,現生の信心の往生・還

相を否定する学者には時代考証がなく,わが身中心の読み方になっており,信心が主

体となって命がけで利他行する心だと,壊れない「金剛心」だと教える親鸞に逆行するこ

とになろう。

15)○「この信は最勝希有人なり,この信は妙好上上人なり。」(本派552頁,大派466頁。)
 ○『信巻』には「正定聚の機」と,信心を「機(人格)」と理解している。


  「得生」の「得」について,『自然法爾章』と『唯信鈔文意』に「得」の字が説明され,こ

の二文を整合すると,「得」は手に入れてしまったという已然形の意味となる。(16)つま

り,「得生」は生まれ終わったという意味なのだ。すると,次に必ず還相がなければいけ

ないから,「利他の信心」とは還相の信心のことだと理解すべきというのが私の主張で

ある。

16)○「獲」の字は,因位のときうるを獲といふ。「得」の字は,果位のときにいたりてうること
 を得といふなり。「名」の字は,因位のときのなを名といふ。「号」の字は,果位のときのな
 を号といふ。(『自然法爾章』。本派621頁,大派510頁。)
 ○「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す,名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを
 申すなり。(『唯信鈔文意』。本派700頁,大派547頁。)


親鸞は,「欲生心」の説明で還相の文を引用するから,「本願の三信心」は還相の「利他

」までを包括していると学ぶべきであった。そして,『信巻』末の「横超」の説明で,『重誓

偈』の第一句の「超世の悲願」文を引いて説明したのも,信心の還相を学ばせたと推論

する。

現生の往生・成仏を主張する学者はみな,この「横超」の存在からである。(17)しかし

,現生の成仏を否定する学者たちの本を読むと,「横超の信心」の説明ができていない

のだ。

17)○論文集『東方』第6号,211頁。中村元著・「極楽浄土にいつうまれるか?」‥‥‥中
 村元監修の『岩波仏教辞典』に対する西本願寺派からの訂正申し込みをめぐっての論
 争,に引用の拙稿参照。東方学院,1990年発行。
 ○鈴木大拙著・『浄土論』(『親鸞大系』1,法蔵館。133頁。)・『日本的霊性』(23頁)で
 は,「横超」によっていま往生・成仏を説いたと主張している。
○拙著・『ふかまる横超』,8頁。(国書刊行会。平成7年5月30日初版)と拙著・『反差別
 の教学』,85頁。(永田文昌堂。1996年5月1日。)を参照。


 親鸞は「決定の信をえざるゆえ/信心不淳とのべたまう/如実修行相応は/信心ひ

とつにさだめたり」(『曇鸞和讃』。本派586頁,大派494頁)と歌われる。信心がブッダ

の行と同じ「如実修行」をするという。「如実修行」とは,「不行にして行ずるを如実修行と

名づく」(『証巻』。本派318頁,大派288頁)といい,還相のボサツの「行」として説明さ

れるから,アミダブツと同じ利他行を実行しようという,還相の「行」のことになる。

 善導は「仏の大悲心を学ぶ」というから,還相までの信心を学び実行しなければいけ

なかったのだ。親鸞は「この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり」(『唯信鈔文意』

)といい,利他行にかかり果てる心が信心だと,これを「浄土の菩提心」だと学んだのだ

。つまり、「信心」を得ると,現生に「常行大悲の益」を得て苦悩者のために,つねに手助

けするのが真の念仏者なのだ。

 ‥‥‥かくて,念仏の行者はアミダブツに似てくると論及できる。


 ところで,西本願寺では「欲生心」を「決定要期の心」と造語して,死後の往生がいま

決定し,往生を待ち受ける心と解釈させる。この学びでは「欲生釈」で還相がなぜ説明さ

れたかが理解できないだろう。そのために,利他の信心が生まれず,臨終に〝往生す

るぞ,するぞ〟という「たより」を得ているにすぎず,「果遂の往生(果たし遂げるの往生)

」や「欣慕の浄土(願い慕う浄土)」(18)や「臨終現前」(19)という自力の信心に陥って

いることになる。現に,本願寺では貧困者に貢献する利他の説明がなく,キリスト教の

隣人愛に見劣りがして魅力のない宗教となっているのはそのためであろう。

18)諸機の三心は自利各別にして,利他の一心にあらず。如来の異の方便,欣慕浄土の
 善根なり。(『化巻』。本派382頁,大派331頁。)
19)これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに,仮あり真あり,また行あり信あり。願とは
 すなわちこれ臨終現前の願なり。(『化巻』。本派392頁,大派339頁。)


 1990年,中村元博士の監修した『岩波仏教辞典』問題で,すでに私が指摘してきた

ところだが,(20)未だに修正されないということは利他行を後退させ,門徒への背信と

愚弄となって,キリスト教に浸食を早めさせることになったと危惧するところである。

0)○論文集『東方』第6号,211頁。中村元著・「極楽浄土にいつうまれるか?」‥‥‥
  『岩波仏教辞典』に対する西本願寺派からの訂正申し込みをめぐっての論争,に引用の
 拙稿参照。東方学院,1990年発行。


  『証巻』の利他について

親鸞が学んだ「証り」とは,まず「利他」が重要な意味を持っていた。『証巻』の巻頭で,

このように説明されるからだ。

  謹んで真実証を顕わさば,すなわちこれ利他円満の妙位,無上涅槃  の極果なり

。(『証巻』。本派307頁,大派280頁)


 親鸞は,涅槃の前に「利他」を置かれた。これは,利他行を大切にした大乗仏教を意

識していた証左となろう。一番に「利他円満」があり,次に「涅槃」という順列の含蓄が,

どういう意味であったかを『浄土文類聚鈔』に照合してみたい。

  証というは,すなわち利他円満の妙果なり。(本派481頁,大派406頁)

「利他円満の妙果」といえば,証りとは利他行した結果だという意味になる。前号に学ん

できた「教・行・証を敬信し」と,信心の中に「証」を包括していたことを思い出していただ

きたい。「涅槃の真因はただ信心をもってす。」(『信巻』。本派229頁,大派223頁)と

いい,「因」が「果」になるのだから,わが身の証りより先に「信心」の利他行が必要にな

る。

 ところが,西本願寺の中枢教学では「信心正因」を学び,信心によって私が往生すると

,信心が往因だと教えているがこれは国語がおかしいのである。信心によって私が往生

し,私が証り・涅槃を開くのなら,私が「正因」であり信心が「縁」といわなければいけない

。「信心正因」の説明で,親鸞がそのようにいわれた箇所は一度もないのだ。

 親鸞は「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」(『尊号真像銘文』。本派665頁,大

派527頁。)というから,往因は念仏であり,念仏が往生させる「因」なのだ。「因縁果」

で分析すると,「因」は名詞,「縁」は動詞,「果」は名詞であり,「因」が「縁」の力を受け

て「果」になる。「因」は信心で名詞,「縁」は念仏で動詞,「果」は涅槃・証りで名詞だから

,「信心」が涅槃になると理解しなければ,国語が間違っているのだ。たとえば,「大信心

は証大涅槃の真因」(『信巻』。本派211頁,大派211頁。)といえば,信心が念仏の働

きを受けて,「証大涅槃」になると考えるべきなのである。

 すると,生きているいま,念仏や信心の「利他」行がなければ,「真証の証」には入れ

ないと親鸞がいったことに一致する。この読み方なら,仏教の常識にも合致しょう。

 『無量寿経(大経)』には,アミダブツの前身であった法蔵ボサツは自利・利他円満の

行によってブッダとなったというから,念仏者にも同じ自利・利他円満の行をさせようと考

え,念仏・信心を説いたはずだ。(21)

21)粗言の自害と害彼と,彼此ともに害するを遠離し,善語の自利と利人と,人我兼ねて利
 するを修習す。(『大経』。本派26頁,大派27頁。)


 親鸞の『証巻』で重要な案件に,「大乗の正定聚」がある。「正定聚」とは,必ずブッダ

となるに定まった仲間という意味であり,大乗仏教の最高位のボサツの意味なのだ。『

大経』では浄土のなかの利益として説かれていたが,それを親鸞が咀嚼して現生・正定

聚といったことは有名だ。

 「正定聚」は『法華経』にも説かれ,親鸞当時の希求された位だった。(22) 『法華経』

といえば,親鸞当時の一番力を持っていた天台宗のお経であり,当時の民衆にも一番

人気のあったお経である。この『法華経』の「四法」で,「三には,正定聚に入り,四には

,一切衆生を救う心を発するなり」というから,民衆のために利他行を実行しない「正定

聚」は認められなかっただろう。

22)もし,善男子,善女人,四法を成就せば,如来の滅後において,まさにこの法華経を 得べし。一には,諸仏に護念せらるることをえ,二には,諸々の徳本を植え,三には,正 定聚に入り,四には,一切衆生を救う心を発せるなり。善男子,善女人,かくのごとく四法 を成就せば,如来の滅後において必ずこの経を得ん。(『法華経』,「第28,普賢菩薩勧 発品」。『国訳一切経』印度撰述部,法華部,196頁。)

 ところがいま,真宗では「正定聚」が厳密に整理されておらず,いろいろの説が錯綜し

ている。親鸞は「信心」と「身」とを分けて説明して,「正定聚に住す・数に入る」という場

合は「信心」についていわれたのである。「正定聚の位に入る」という場合は「身」につい

ていったのだ。その整理が『一念多念文意』と『愚禿鈔』に学べる。この二文を整合する

と,「身」は往生していないが,「信心」が往生したと理解できる。(23)

23)①「すなわち往生す」とのたまえるは,正定聚の位にさだまるを「不退転に住す」とはの
 たまへるなり。この位にさだまりぬれば,かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆ
 えに,「等正覚を成る」とも説き,「阿毘跋致にいたる」とも,「阿惟越致にいたる」とも説き
 たもう。「即時入必定」とももうすなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。(『一念多
 念文意』。本派680頁,大派536頁。)
②本願を信受するは,前念命終なり。
 「すなわち正定聚の数に入る」(論註)文「即のとき必定に入る」(十住論)文   
即得往生は,後念即生なり。    また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)
文 (『愚禿鈔』。本派509頁,大派430頁。)
 ③浄土へ往生するまでは,不退のくらいにておわしまし候えば,正定聚のくらいとなづけ
 ておわします事にて候うなり。(『御消息集』。本派792頁,大派590頁。)
 ②の文は,信心の事例においてで,獲信のときが命終で「正定聚の数に入る」,次の一
 瞬が即往生だという。「必定の菩薩」というのは,龍樹の『十住論』から学んでいる。龍樹
 の教えた菩薩は一生懸命に利他行する菩薩のことであったことはすでに学んできたとお
 りである。
 ③の文は当然,「身」についての「位」の説明となる。


 『一念多念文意』は「身」についての説明文で,ここに多くの左訓が存在する。


「正定聚」には,「往生すべき身とさだまるなり」。

 「不退転」には,「仏になるまでという」。

 「等正覚」には,「仏となるべき身とさだまれるをいう」。

 「阿毘跋致」には,「仏になるべき身となるなり」といっている。

 これらは「身」についての説明文なのだ。これを「信心」の説明だと理解すると,利他行

が理解できなくなる。親鸞が「信心は仏性なり,如来なり」と言明される文と矛盾するだ

ろう。

 『愚禿鈔』からは,「自力の信心」はいま命が終わって,浄土往生をして「他力の信心」

となり,「正定聚に住す・数に入る」のだが,「身」はまだ往生ではなく「正定聚の位」だと

整理できる。

 たとえば,私が京都に観光旅行で行ったとする。これで,京都という位置にいるのでは

あるが,京都の「数に入った・住した」のではない。京都の数に入るためには,京都に住

まなければいけない。だから,「位」は「身」の事例,「住す・数に入る」は「信心」の事例と

理解できるだろう。

 信心は「正定聚に入った」から,大乗のボサツの利他行をわが身に果敢に呼びかける

心なのだ。心に利他行を抱く者を,龍樹は「必定のボサツ」という。つまり,親鸞が考え

る「正定聚」は「一生補処のボサツ(弥勒)」と同じで,還相のボサツでもあってブッダと同

じ「行」をする者と学ぶべきなのだ。

  むすび

 かくて,親鸞の示唆した「深信」は,利益追求に溺れる身勝手で浅い信者をして,利他

行に生きる深い信者へと変容させることにあった。その親鸞の考えた「利他」の内容を

推察すると,二つの方向だったであろうと考える。

 一つには,『重誓偈』の第二句にアミダブツが「大きな施しの主となり,自分の持ってい

るすべてを,貧苦に与えて救う」という利他行をめざす。

 二つには,聖徳太子に関する膨大な歌が残されたことから,太子の社会福祉の利他

をめざす。

 『重誓偈』の第二句の「貧苦」を,伝統的には「心の貧しき人」と解釈してきた。ところが

,サンスクリット本の日本語訳を見ると,「多くの貧しき者に,多くの尊い麗しきもの(=

財)が存在しないならば,苦しみに陥った人を幸せになし得ないならば,わたしは,人々

のなかの宝石のごとき王とはならないでしょう。」と,アミダブツは財産に貧しい人を救い

たいと願っていたのだ。(24)この学びが,国際的な難民や最貧国に貢献する,念仏者

を生み出すことができるだろう。

24)○『浄土三部経』,49頁。中村元,早島鏡正,紀野一義訳註。(岩波文庫。1963年12
 月16日初版。)
 ○拙著・『親鸞聖人の現場の教学』,156頁。(法蔵館。1990年10月1日発行。


親鸞は『太子讃』で,聖徳太子を日本のシャカムニという。そして,還相のボサツとは「シ

ャカムニ仏のごとくにて,利益衆生はきわもなし」(『浄土和讃』20)と歌われるから,還

相の信心と聖徳太子の利他行が呼応しよう。太子の「利他」の活動は,四天王寺に代

表される四箇院である。とくに,孤児や老人を助け,貧者に炊き出しをして食物を与えた

り医療に関わった,悲田院・施薬院・療病院は現代に叫ばれる福祉への利他行であっ

て,念仏者の人間像として無視できなかったのだ。

 ではなぜ,この利他行が消えたのかという疑問に,一番に浮かぶ答えは一向一揆に

敗退した真宗が,貧苦者を見捨てて権力者に迎合したためと考えられる。一向一揆の

ころは,守護大名の高い年貢にあえぐ,農民の苦を連帯していただろうことが想像でき

る。そういう世の不満を持った者と連帯して,抵抗運動を生んできた。この運動の是非

は別として,苦悩者と連帯したであろうことは想像できる。

 この抵抗運動に敗退し,真宗がこれ以上広まってはいけない,喜びをもって団結して

はいけないという方向にと歪められていったと想像するのだ。そして,どのような環境に

おかれても「おまかせ」のままに喜べと教えてきただろう。しかも,苦悩者を見ても自分

の家庭が汲々とした状態で,利他行などできない社会へと移行しただろうと推察する。

 かくて,利他行は抹殺され,権力者からは歓迎される「自体満足(おまかせ)」の教えを

強要して,社会を見て「主上臣下,法に背き義に違し,忿りを成し怨みを結ぶ。」(『化巻

』。本派471頁,大派398頁)
と批判する正義の心を失ったと想像するのである。

 
             (いりい・ぜんじゅ 普通会員・光教寺住職)

注,()内の「本派」は本願寺派発行の『浄土真宗聖典』の注釈版,「大派」は大谷派発

行の『真宗聖典』のこと。